白い道 search for truth 2003 9 4

 仏教に「二河白道」という、たとえ話があります。
これを現代風にアレンジしてみると、こうなると思います。
 昔、ある人が、西方に旅をしようと、決心しました。
昔は、治安が悪かったので、旅をするにも決心が必要だったのです。
 道を、一人で、さびしく歩いていると、
突然、左手に、火の河が出現しました。
この火の河が、今にも、旅人に襲いかかろうとします。
 旅人は、旅の疲れで、幻想でも見たのかと思いましたが、
しかし、今度は、右手に、水の河が現れました。
水と言っても、台風の後の濁流ような水の河です。
 旅人は、思わず、足がすくみました。
いつの間にか、自分が立っている場所が、
一本の狭く白い道となってしまったのです。
 旅人は、あわてて、その道を引き返そうと、後ろを振り返ると、
その道の後ろ方から、野獣のようなものが追いかけてくるのです。
 しかし、前に進もうとしても、
火の河、水の河によって、白い道が消えそうになっています。
こんな狭い一本の道では、どちらかの荒れ狂う河に落ちそうで、不安になりました。
 しかし、旅人は、どのような困難があっても、
西方に旅をするという決心を思い出し、
決意して、その細く白い道を進みました。
 すると、一度、決断し、決意すると、
その細く白い道は、旅人には、広く白い道に見えました。
 火の河とは、「怒り」を象徴しています。
人間は、心が「怒り」で満ちていると、正しい判断ができません。
 水の河とは、「貪り」です。
過度の名誉欲、出世欲、金銭欲のことです。
 人間が生きていく上で、「欲」を持つことは必要です。
しかし、「欲」が、あまりに大きくなると、
やはり「欲」に振り回され、正しい判断ができません。
 野獣とは、「煩悩」のことです。
これは、肉体から発生する欲望のことです。
年を取っても、肉体から発生する欲望を抑えられません。
精神が、肉体を制御することは大変です。
 白い道とは、「真理の探求」を象徴しています。
闇夜に、白い線が引かれていれば、たとえ細く狭くても、
目的地にたどり着けます。
 この白い道が、正しい道なのです。
正しい道を行くには、正しい判断、正しい見方が必要です。
これが、仏教で言うところの「正見」です。
 怒りで心が満ちていても、欲望で心が満ちていても、
正しい見方、判断はできません。
すべて、色眼鏡をかけて物事を見ているようなものです。
 現代は、混迷の時代と言われます。
何が正義で、何が悪なのか、わかりにくくなっている時代なのです。
ですから、現代は、「二河白道」の時代とも言えます。
しかし、いつの時代も、白い道はあるのです。

 キリスト教だけがすばらしいと考えるのは、固定観念です。
仏教は、知恵の宝庫です。
重層信仰は、決して、遅れた信仰形式ではなく、進んだ信仰形式です。